手術室の会話ってなかなかよ〜part8
楽観的だった。
意味もなく。
諦めでもなく、絶対的なことでもなく、だ。
癌告知は、初めてではなく、その度に、右往左往しても、最後は、組織検査で決まることを
知っていた私は、
多分、今騒いでも、しょうがないと、心の何処かにあったのかもしれない。
主治医からの提案は、突然だった。
月に一度、
隣県のがんセンターから、僕の師匠とも言える先生が来るんだ。会ってみる?そして、みてもらう?
診察は、普段は、しないんだけど、診てもらうだけでも。どうかな?
診てもらうだけ?
緊急事態宣言が解除されたとはいえ、急いで手術しないといけないものなのか?ある程度は、猶予があるのか?そもそも本当に癌なのか?
これらのうち、何かがはっきりするのなら、と、承諾した。
そして。
車椅子で、外来に連れてこられた。この日は、土曜日、外来は、しんと静まりかえっていた。
内診の椅子の上で、ひとしきり待たされた。
この内診台に乗るたびに、女に生まれてきたことを恨んだ。妊娠ならまだしも、この椅子は、拷問のような感覚で、いつも、顔を覆いたくなる。
○○です。
見せてくださいね〜。
医学用語が飛び交う。
黙ったままの私。雰囲気で分かった。多分、良くない。空気が変わったのだ。
その場で画像見ながら説明を受けた。
もちろん、この時もひとり。
コロナは、様々な慣例をことごとく壊してる。主人がいたら、どう答えたのだろう?
僕が手術する。
初老の彼が言う。
すぐおいで。手術室は、押えておくから。
その前に、一度、検査に来るように。
矢継ぎ早だ。
いや、そう感じた。
要するに、猶予は、無かったのだ。
part9につづく。
私は今。
私は今、インフルエンザに罹患している。
家族が次々罹患するたびに、まだだ!まだ、うつらないで欲しいと願った。
というのも、
お店に出てる息子、間髪いれずに、娘。主人が寝込んでしまったのだ。
孫と、義母だけは、守らねば、と、2日過ぎて、孫2人が罹患。40度と高熱だ。
(息子が罹患して3日めの)週明け、いくらか回復してきた息子が、この2人を病院に連れて行く。
インフルエンザA😮💨やはり。
その間、嫁と、娘の子が38度越えの熱を出して、時間差で、私が病院に連れて行く事に。
息子が罹患してから、4日め。
一人掃除をし、食事を支度し、疲れていた。いや、
カラダがだるくなってきた。
周りがもっと辛そうなので、顔には出さない努力をしなければいけなかった。
主人と、娘を病院に連れていき、薬をもらって帰宅。すぐ、昼ごはん。この後、台所とリビングを締め切っていたので、
みんなご飯たべたのか、全く気づかなかったのだ。
いや、逆に、
わたしが、リビングにいる事に、誰も気づかないでいたのだ。
薬(イナビル)を吸引させてから、そのあと、
私は、気絶するごとく、眠ってしまったのだ。
だれにも、きづかれず、起きたのは1時頃だった。
その日、(あまり熱も上がらず4日目の)娘が、夕飯をつくり、私は、夕飯そこそこにまた横になった。
寝ているのに、外の様子が想像できてしまう。その淵で、ふらふらしているような感覚。
身体が熱く、落ち着かない。
でも、また、眠くなる。
娘が寝室に来た時には、
もう暗くなっていた。体温計を渡されて38度4分には驚いた。
薬を飲んで💊また寝る。
何度も起きた。足も手も置き場に困るような、夜を過ごした。
ジャック&サリー💖この子たちは、
かろうじて罹患する前に仕上げた。
お腹ぽっこりでかわいい💕
ヌケさん。今でしょ!
ばあちゃんが転んだ。
だるまさんがころんだように。
朝まだ暗い6時過ぎの事。
どん!という大きな音と、下駄箱のガラガラと開く音がした。
また、孫が寝ぼけてサンダルで滑ったのかと思って、
なんだ?なんだ?と廊下に出てみると、あたまから、玄関のタタキに倒れていたのは、ばあちゃんだった。
大丈夫?と、起こそうとするが、すぐ痛い痛いと言って立ち上がれなかった。
骨折が脳裏をよぎる。
自分のタイミングでいいよ。段差のところに、座ってね。と声をかけると、
自力で、座ることだけは、できた。
多分だけど、骨折ではないな。
その後、主人に手伝ってもらって、ばあちゃんの部屋の布団の上まで運んでもらって様子をみた。
何が起きた?
本人の話では、お客さんが来たから、ドアを開けようとしたらしい。(朝の6時に?)
廊下と玄関のタタキの段差で滑ったという。
湿布貼って、様子をみることに。.
一晩様子を見たが
あまりに痛がるので、県立の病院を受診したが、午前中いっぱい待たされた挙句に担当医ではなく、外科の院長の診察となり、レントゲンの結果は、骨に異状なしとのことだった。
安心したものの、トイレも、食事も、介助が必要なのにどうしたものか、と言うと、
おもむろに陰に手招きされ、
コロナの陽性者かでたから、入院はさせられないと告げられた。
私まで小声になるほどに、処置室の隅で院長自らが、院内の感染をカミングアウトするのだから、余程の事態なのだろうと思い、
ばあちゃんの介助も、腹くくらないといけないな、と考えを巡らせていた。
常々、介護については、いつか覚悟しなければと思っていた。
それが、今なのかもしれない。
あれから、
3週間が経った。
その後、整形の診察をあらためて受け、ヒビが入ってるのがわかったが、入院にはならず、介助をしながらの生活が始まった。
現在、自力でトイレにいけるまでに、回復している。
にしても、院長の意味深な話は、何だったのだろう?
2022ありがとう。すべての人に。
今年もあと10日を切った。
一晩しかちがわないのに元日は、2023年。当たり前のことで、疑いもなく毎年、おめでとう(・ω・)/㊗と挨拶して1年が始まる。
初○○とか、○○は、今年初めてですとか。日本に限らず、世界中が、ハッピーで、お祝いムードだ。
その裏側で、クリスマスも、お正月も、素直に喜べない人が必ずいるはずだ。
最近、歳を取ったせいかなにかの裏側を考えるようになって。何だか、すごく寂しい。こころが。
私たち夫婦の人生は、お互いに、スピードは違っても、慌ただしく、激しく、拾うものあれば捨てるものも。来る人たちがいれば、去る人たちも。
それぞれが、何かを選択する時でも、必ず自分できめた。そしてそのことに、微塵の悔いもないと、言い切るところが、そっくりだ。
子供たちも大人になって、孫も出来た。ここ、13~15年くらいは、孫の面倒を見る、いわゆる孫育てで忙しかった。振り返っても、時系列がバラバラで、あまり、記憶にない。笑
孫に、せがまれ作ったぬいぐるみや、あみぐるみが、いつの間にか趣味になり、4年前に始めたインスタが毎日の楽しみになっている。
そんな私が、考えることが人の裏側や、物事の裏側になってしまったのだ。TVの情報番組から、流れるくだらないうわさ話と同等のことになってしまったのだ。
要するに、暇を持て余している。
寂しいことだ。
そして、どうにもならないことを考え、頭を使うのは疲れる。だから、
2022年は、つぎに繋がる年にしようと、主人と決めた!
今年、年の初め、大寒波の日に、予約していた病院に、初めてひとり電車とバスを乗り継いで行くことに。マイナス15℃でアイスバーン。事故多発で大変な一日だったが、
痺れる足を引きづりながら、たくさんの人のおもいやりや、奇跡の連鎖で、わたしは、無事診察を終え、帰路に着くことが出来たのだ。
(当時のことは、インスタにポストしています)
感謝しかなかった出来事に、2022年は、自然と感謝の一年になっていったように思う。
つぎに繋がる年とは、
大雑把に言えば、あきらめないで、前を向く。つぎの年やつぎの世代に繋がるように、気持ちを前向きにするって事かな?
私たち夫婦は、よくぶつかる。
お互いの性根がホントは、弱くてネガティブだからだ。だから、ぶつかっては、励まし合う。
今年、やり残したことは、また、来年の目標にする。お店は、今は、コロナもあって、大変だ。
新しい年に繋がる事、できる限りの親の姿を息子たちに見ていてもらいたい。そして一緒に進めたら。
それが、私たち夫婦の願いだし。終活なのかな、と思う。
今年、関わったすべての人に感謝。
手術室の会話ってなかなかよ〜part7
ご主人がお見えですよ。
主治医と病室でのやり取りから3日。私と主人は、ナースステーションの隅の部屋にいた。
10日ぶりの彼は、レザージャケットを着て、ここぞ!というときのいでたちだ。やる気だよ〜😅.
主人は根っからのヤンチャ野郎。頭はいいが、めちゃくちゃな青春時代を送ってきた大バカ野郎。🤣
未だに語り継がれる族の初代総長。編み物や、ハンドメイドばかりして人生最大のモテ期の学生時代を過ごしたわたし😅とは、全く接点がなかった。ふたりの結婚は、当時お互いの同級生の中では、速報級のスクープというくらい地元では騒がれた。
は、さておき、そんな主人に、主治医もタジタジに始まった説明会?(?)
パソコンの画面のモノクロの画像を見ながら、主治医の話の中の
腹水のワードだけが、頭の中をクルクル回っていた。真っ白だ。説明の内容は、入ってこなかった。
何故、すぐ手術できないのか、何故?何故?
癌に99.9%間違いなく、破裂した、癌は、腹水となり、お腹の中や、リンパにのって全身に回ってるだろうとの事。開腹して、悪いところだけとるのにも、よほどの大手術。コロナ禍での、通常の手術と違う中、
要するに、
自信がないという話だったらしい。
このいでたちですごんできた主人も、なんとかよろしくお願いしますと深々と頭を下げていた。
元々自分たちの力では、どうすることもできない話だ。
落ち着いてみれば後から分かる事だらけなのに、退院したいの一点張りで、よほど主人を困らせていた。
手術の目処もつかず、ただただ独房のような個室にいた私は、その日、大部屋に移された。
その何日か後、奇跡のストーリーが待っていたとは、想像することもなく、痛みだけをかかえてそこにいた。
part8につづく。
ポコちゃんが、悪魔ちゃんになっちゃった😎😆
ヌケさんのちょwwwといっぷく(-。-)
過去の出来事から、現在に。
今みんな何してる?
ヌケさんは、ここ、何日?5日くらい?
身体にチカラが入らず、お昼寝ばかり。笑笑
主人もらしい。
息子に至っては咳。娘は、鼻づまり。
私は関節。主人は、お腹。笑笑
なんてことは無い。みんなで、風邪ひいた!笑
お店を3連休にして、みんなで温かいもの食べてだらだらの3日間。
オーダーの品をいそぎ出荷。他の方には、少し待っていただき、久々のだらだら休暇。
のつもりが、、、
やっぱりね。根がせっかちだし、じっとしてられなくて、お風呂とか、洗濯機とか、洗面所とか。ピッカピカにしてやったぜ。😏😏😏😏
して、また、寝込む。やたら寝る😪笑
コロナ禍のこの時期、当然孫たちは、また、自主休校していて、風邪ひとつひかない。☝ ˘ω˘)☝ふぅー!!👏👏👏👏
この波が、また、治まるまで、賑やかな生活なのだ。
娘や、息子の友人たちが、そんな中コロナに感染し、休んでいるという。コロナも、風邪並にもうその辺にいるのだよ。
11月も、あと、9日。年の瀬が迫る中。もし、我が家にコロナがやってきたら避難場所は、保健所に用意してもらう!と決めている。
みんな離れ離れになる。ばあちゃんは、基礎疾患あるから、感染したら、入院だよ。パパも、じじも。ばぁば(私)も。
不安を煽ってるんじゃなくて、実際、感染しただけ!で終わるわけがないのだ。
店はストップし、ママは働きにいけない。お料理したり、買い物したりは、動ける子がしないといけない。
孫たちは、友だちと会えない淋しさを我慢しながらも、毎日のお手伝いと学習は、欠かさない。
なぜなら、いつ、学校に行けるようになっても遅れを取らないように。
親たちは、子どもたちに引け目を感じさせないように、これまたがんばる。
我が家の自主休校も8回目だ。笑笑
最近の作品。リラックマお着替えバージョン。
苦労したかいがありました。
すでにお嫁いり。
手術室の会話ってなかなかよ。part5
無機質な病室でひとり。
主人とLINEで繋がってることが救いだった。
コロナが、日本中に猛威をふるっていた。2020年。
このとき、岩手県には、まだ感染者がいなかったのに緊急事態宣言が出たために、病院では、緊急の手術以外は、見合わせるようになっていた。
ようやく、主治医から、話が聞けたのは、卵巣破裂から、1週間経っていた。
彼は、
手術着のまま、汗を滲ませながら、さも、オペで疲れているのに、という雰囲気を漂わせ、病室の椅子を引き寄せて、座り込んだ。
そして、なんで、破裂したのかなぁ?と、誰に、問うともなく天井を見上げたのだ。
そして、告げられたのは、
卵巣がんを疑うという事だった。
病室で、ひとりで、主治医の話を聞くのは、辛かった。コロナのせいで、面会はおろか、買い物にも出られなかった。主人とのLINEのやり取りだけでも、クタクタだった。主治医の話なんて、まともに頭に入って来ないに決まってる。
(わたし) 緊急の手術に、なぜならないのか、、、?
不満をぶつけた。
こんな、卵巣サッサと取ってくれればいいのに。
出産だって、帝王切開だって、やっているのに、何故、わたしの手術は、出来ないのだろう。
彼は、
何だか、昔からの知り合いのように、馴れ馴れしい口調で。
(主治医) 陰圧室で、手術しないといけないから。
熱があったからね。
もちろん、出来ない訳ではないけど、電気メス使うのに、陰圧室で大丈夫かな?と思ってさ、いろいろ、調べたりしたら、可能は可能らしいけど、
はじめての事だしね。
他の県内の病院でも、受け入れは、厳しいみたいだしさ。
(わたし)普通に考えて、卵巣が破裂したんだから、緊急を要するんじゃないの?
(主治医)今のところオペ室空いてないんだよね。
とりあえず、考えて、最善を尽くすし、放射線科の先生の見解がまだ出てないから、もう少し、待って!
あっという間の出来事。なのに、未だによく覚えてる。陰圧室でなきゃ手術できないなら、やるしかないだろ。電気メス使うから、って、なんだ?何言ってたんだ。主人に電話する手は、震えていた。
一通り話を聞いた後。
主人。
なんで、告知をお前ひとりの時に、しかも病室で、お前が1人で聞かなきゃいけないんだ!おかしいだろ!
…涙が。
入院して、はじめて泣いたかも。
主人に、悟られたくなかった。
part6につづく。
娘のリクエスト💓💓💓💓💓マシュメロ君